私という人間
ひとの気持ち、場の雰囲気といった人間関係に関するものを敏感に感じ取る子供でした。
感じる力、共感する力が強く、他の人が気づかないような小さなことにもよく気づき、頭の中でいろいろと考えをめぐらす子供でした。
まわりに不機嫌な人がいると緊張する 細かいところまで気づくため、仕事に時間がかかる 相手が気を悪くすると思うと断れない 疲れやすく、ストレスが体調に出やすい
最近よく言われ始めた「繊細さん(HSP)」の特徴に似ているなと思うようになりました。
仕事と自分
仕事は、医療機関の相談員(ソーシャルワーカー)を15年以上してきました。
仕事を通じて、自分が支えられ、人と関わることで人生や命の大切さを学び続けています。
さらに、人の温かさと優しさを知り、人の強さ、つながりの大切さ、
それぞれの人生の大切さと素晴らしさをしりました。
人間って素晴らしい!!
でも、自分のこととなると、自己否定が強くて自己肯定感は低く自信がなくて、頑張り続ける日々。
常に自分が自分を見張り、指摘し、自分のこころに矢を刺すように傷つけていました。
こころがズタズタになり、外に助けをもとめました。
いろいろなセミナーに行き、コーチングを受け、いろいろな人に助けてもらいました。
いっぱいの優しさや温かい支えに助けてもらい、気づかせてもらいました。
実は、答えは自分の中にあったんです。一人では難しいけど、一緒に自分と向き合う時間が必要でした。
相手役になる
自分のこころの中の声を聴くためには相手が必要です。
一人では難しい、一緒に聴き、
自分を苦しめている原因を一緒に探し出しブロックを解放。
ソーシャルワークの対人援助術とこれまで自分のために身に着けてきたものを合わせながら、人間関係や人生、仕事もスムーズになるように、私のライフワークとしてサポートしていきたいと思っています。
生き方のお手伝い
医療機関で相談員、介護支援専門員として10年ほど勤務。現在は病院の相談員として退院支援に関わっています。
高齢者の方々を支援することも多く、人生経験を積み重ねた何人もの方々の生活から、生き方は本当に多種多様であるということを学びました。そのような経験から、多種多様な価値観や生き方を尊重し大切にしたいと考えています。
さらに、終末期医療の現場で患者や家族に対するケアに多くかかわった経験があり、ケアの必要性を実感し学び続けています。
臨床経験、自己体験の中でカウンセラーは過度なアドバイスやセラピーではなく、「心の声を聞くこと」であり自分の中にある答えを見つける伴走者だと思っています。
自分のことを話すことで、自身で自分と向き合い解決方法を導き出す。普段言えないことを口に出して心を軽くすることのお手伝いができればと思っています。
ソーシャルワーカー(社会福祉士)とは
社会の中で生活する上で実際に困っている人々や生活に不安を抱えている人々、社会的に疎外されている人々と関係を構築して様々な課題に、ともに取り組む相談援助を提供するソーシャルワークを専門性に持つ対人援助専門職の総称である。そのため、相談者本人だけではなく様々な課題の背景や周囲にある、家族、友人、その他の関連機関や環境にも働きかける。
不妊体験について
時間が経つと、まるで人の話をするように客観的に自分のことを話せるようになりました。
子供ができないことを受け入れるのに10年かかり、過去の思い出として治療のことを話せるようになるまでに約10年…
年月は、やっぱりかかるのだなって感じます。
約20年前は子供を産めない自分を認められなくて、
そして、子供のいる人をうらやましくてねたましくて、
「なんで私が…」
「何がいけなかったんだろ?」
「私は何か悪いことをしたのかな?」
と、心の中で悲鳴をあげ、泣き叫び訴えていました。
これから先ずっと赤ちゃんを見ると、心がズキズキ、ザワザワして直視できなくて苦しんでいくのかと思うと、将来や未来が怖くて、本当に先は真っ暗闇でした。
女性として、社会に貢献する人として、無価値であり存在する意味すらないような認められていないような… そんな気持ちでした。
年月が経ち、いま思うことは…
子供を産めなかったけれど、一人の女性としてしっかり自分の足で立ち生きている、
それなりの人生を過ごしている。
子供が産めなかったとしても、それなりに頑張って生きてきたし、
それなりに税金も払って社会貢献してきたし、
それなりに周りから必要とされていて愛されているし、
それなりにちっちゃい幸せは毎日あるし。
心から笑うことなんてできないって思っていたけれど、それなりに「幸せかな」って思えています。
私の夢はお母さん
私の将来の夢は、ただただ、漠然と「サザエさん」の家でした。
子供がいておじいちゃんもおばあちゃんもいて… 私は優しいお母さんの役です。
少し成長の早かった私は、小学生のころ生理が始まり、母親からは「お母さんになれる身体になったね」って言われて、意味はよく分からなかったけれど、「お母さんになれる」って思うとうれしかった。
学校の教育、親からの教えが、そんな時代でした。
女性の社会進出が社会で取り上げられ、女性も社会で活躍し始めた時代だったけど、まだまだ、女性は子供を産んで育てて一人前、そんな考えが一般的でした。
だから、私の未来予想図では、27歳で結婚したら30歳までに子供は産むって自分の中での計算ができていました。
だけど、結婚1年目近くになる頃から「なんでできないんだろ?なんで?なんで?」と思い始め、考え始めると止まらない性格なので…
いろんなことを考え、自分を追い詰めていきました。
そうこうすると…
赤ちゃんの声に過敏になっていき、子供を身ごもっている友達や姉とは会いたくなくなり、子供の話を聴くことすら、辛くてどうしようもない状態に陥りました。
治療開始後、奈落の底
そのころ「赤ちゃんが欲しい」という雑誌が創刊された時で、その雑誌から不妊専門クリニックを見つけ行ってみることにしました。
医師からの言葉「結婚して1年半か… 30前やしな… 焦ってきたんやな… 子供ほしいな」と、そんな何気ない言葉で「わかってもらえた… 救われた… 」と思った記憶があります。
さまざまな検査の結果は、男性不妊。二人の間に子供は、出来ないという結果でした。
その時は、「他人事?自分のことと思えない… 」とぼんやり思い、涙さえ出ませんでした。頭では聞いていたんだろうけど、心が反応しませんし、その時の記憶はほとんどありません。
きっとショック過ぎることがあったとき、人は記憶に残さないのかもしれません。
その後、何度も何度も二人で朝まで泣き明かしました。
“ 号泣 ” “ 嗚咽 ” というものが、本当にあることを知りました。
そして、何度も何度も話し合い、一つの結論に達しました……
治療の終焉
今考えるとどれほど二人で話したのか、どんな選択肢があったのかどうか、疑問です。
きっとその時選んだ選択肢が、二人にとってベストの選択、それ以上の選択はその時の二人には無かったのだと思います。
だけど、その時に私の心に寄り添って、話を聴いて、伴走してくれる人がいたらどれだけ支えられたことでしょう。
当時の私は、誰かに助けを求めていて、辛くても「辛い」と言ってはいけない… いっぱい不思議な何かを背負っていました。
ただただ、現実から逃げたい一心でした。